アシッドジャズの先駆者であり、未だに古さを感じない未来感あふれる音楽の追求者!!
未来・宇宙を感じさせる音楽といえば何を思い浮かべる?
例えばDavid Bowie(デヴィッド・ボウイ)とか、クラフトワークとか・・・
これらが想像させる未来・宇宙は『スターウォーズ』シリーズや『21世紀宇宙の旅』のような一昔前のSFのイメージ
しかし今回紹介するJamiroquai(ジャミロクワイ)は違う!
Jamiroquaiが表現する未来・宇宙は無駄がないスタイリッシュな雰囲気!
デヴィッド・ボウイやクラフトワークが表現する未来の感じはVFX映画的だが、JamiroquaiはCG映画的。
この上記のイメージの違い、伝わる人が何人いるんだろう?
Jamiroquai(ジャミロクワイ)はボーカルのジェイ・ケイによる音楽ユニット!
当時ロンドンやマンチェスターで流行っていた踊れるジャズ、アシッドジャズを全世界に広めた第一人者!
売上で言うと90年代にデビューしたイギリスのミュージシャンで限定すると、スパイス・ガールズ、オアシスに次いで3番目に売れているミュージシャンである。
上記でJamiroquaiは未来的だと語ったが、細かく分解していくと実は未来的な要素はほぼない。
作曲も70年代のソウル・ジャズ・ファンクが元ネタ(主にスティービー・ワンダー)であり、楽器もアナログサウンドの暖かみを重視している。
ジェイ・ケイはいつもネイティブアメリカンの帽子(ウォーボンネット帽)を被っている。
要素の一つ一つはアナログかつクラシック。
だがそれらの要素がジェイ・ケイの歌や踊りと組み合わせると、無機質的でスタイリッシュな未来、無駄の物がそぎ落とされた先の未来を感じさせる。
ゆえに全然古さを感じない!
そんなJamiroquaiの名曲・名盤を紹介!
ジェイ・ケイという人物
幼少期(1969~1983年)
ジェイ・ケイはイングランド北西部のブラックバーンで一卵性双生児として生まれる。
しかし兄デイヴィッドはへその緒が首に絡まって生まれた事による脳障害によって6週間で亡くなってしまった。
彼の母はジャズシンガーであり、テレビタレントでもある芸能人カレン・ケイ。
そのためジェイ・ケイは母に劇場やテレビスタジオに連れられることが多く、プロの歌手やダンサーを間近でよく見ていたことから彼の音楽的素養が培われた。
また父親はポルトガル出身のギタリストであったが、両親が一緒に暮らすことはなかったため、ケイは33歳になるまで父親と面識はなかった。
不良・ホームレスを経て幻のデビュー(1984~1990年)
14歳の頃にロンドン郊外のイーリングに引っ越し地元の高校に通う。
しかしこの頃母と喧嘩し家出してホームレスをする。
ホームレスとして生活するので軽犯罪を繰り返したが、ある日襲われてナイフを刺されて緊急入院。
退院後母の元に戻り、ドラムマシンやキーボードを持っているペルシャ系の友人アレムと仲良くなって曲作りにハマる。
またスケートボードやブレイクダンスなどのストリート系の趣味に没頭するようになった。
しかし高校を中退したので、モヤシのパック詰めや化粧品工場の作業員、電話で意見を聞く市場調査員など様々なアルバイトをしながら生活していた。
1986年、そんな生活から抜け出そうと音楽で生きていくことを16歳のジェイ・ケイは決意し、アレムと一緒に録音したデモテープをあらゆる音楽事務所に送付する。
すると地元イーリングの音楽事務所ストリート・サウンズ社がジェイ・ケイの才能に惚れこみ契約!
これは音楽で生きていくと決意して6週間後の出来事であった。
数曲レコーディングするに至ったが、突如ストリート・サウンズ社が倒産したためデビューの話は白紙となった。
しかしその後も音楽活動を継続。
また地元のクラブで30~60分ぶっ続けで踊っていたため、ダンスの上手い動いやつがいると噂になっていた。
大型新人ジェイ・ケイ(1991~1993年)
1991年、ジェイ・ケイはブラン・ニュー・ヘヴィーズというバンドのマネージャーと知り合い同バンドに加入したいという。
マネージャーはジェイ・ケイの歌唱力を評価して、ジェイ・ケイがブラン・ニュー・ヘヴィーズの曲を歌ったテープを作成した。
その後マネージャーはテープを事務所アシッドジャズレコードの創業者・社長のエディ・ピラーに聴かせて加入を打診した。
社長エディ・ピラーはテープを気に入り「誰が歌った?」とマネージャーに尋ねると、マネージャーは窓の外を指差して「あいつが歌った」と答えた。
そこにはヘンテコなポンチョを着てヘンテコな帽子を被ってヒョウ柄のフレアパンツを履いているジェイ・ケイがいた。
社長エディ・ピラーはその風貌を気に入って、すぐにジェイ・ケイを社長室に呼び目の前で歌って踊らせた。
すると社長エディ・ピラーはジェイ・ケイとソロで契約すると決めて、その場で5000ポンド(当時の日本円だと約128万5千円)で契約。
1992年にジェイ・ケイはデビューシングル『When You Gonna Learn?』をリリース。
ジャズを主体にしたようなダンスソングであるこの曲はロンドンのクラブシーンで衝撃を与えた。
しかし売り上げはイギリスのチャートの50位以内にすら入らなかった。
だがこの曲を聞いたソニーソーホー(1991年に創立されたソニーミュージック・エンターテインメントとの子会社)の重役たちがジェイ・ケイをアシッドジャズレコードから引き抜こうとする。
危機感を覚えたアシッドジャズレコードはジェイ・ケイにアルバム5枚契約を提示!
だがソニーソーホーはそれを上回るアルバム8枚契約プラス移籍歓迎金を提示!
結果ジェイ・ケイはソニーソーホーを選び、新人としては異例のアルバム8作の契約を結んだ!
プレッシャーを押しのけ、世界的なブレイク(1993年~)
大型契約をしたジェイ・ケイはマスコミで大きく取り上げられ、20世紀最後の大物と噂された。
しかし最初から世界的ヒットを視野に入れたプロモーションゆえに、その分プレッシャーも大きかった。
1993年に『Emergency on Planet Earth』(1stアルバム/1993年)をリリース。
UKチャートで1位を記録!
続く1994年に『The Return of the Space Cowboy』 (2ndアルバム/1994年)をリリース。
UKチャートで2位を記録!
本国イギリスでヒットし、ヨーロッパ諸国のチャートでも上位になるが、アメリカでのチャートには一切乗らなかった。
というのも当時アメリカではR&Bがヒットチャート上位に溢れており、白人によるジャズやファンクなどのブラックミュージックは敬遠されうる雰囲気であった。
しかし1996年にリリースした『Travelling Without Moving』 (3rdアルバム/1996年)にてアメリカでもUSビルボード200で24位を記録!
さらに1998年に開催された第40回グラミー賞にて最優秀ポップ・ヴォーカルアルバム賞にノミネート!
そして最優秀ポップ・パフォーマンス賞を受賞した!
彼の未来的なジャズ・ファンクは強い影響力を持っており、
- ファレル・ウィリアムズ
- チャンス・ザ・ラッパー
- カルヴィン・ハリス
- デュア・リパ
- SZA
- タイラー・ザ・クリエイター
- ジ・インターネット
など2010年代のアーティストが彼からの影響を公言している。
次ページからのおすすめ曲・アルバムを紹介!













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