USハードコアの先駆者であり、アメリカ中にDIY精神を広めたオルタナティブロックの最重要バンドの1つ!!
1990年代にNirvanaの大ヒットによりオルタナティブロック・ムーブメントが起こったが、オルタナティブロックは1990年代以前にも存在しており、アンダーグラウンド・シーンで1970年代から着実にファンベースを拡大していた。
そのオルタナ黎明期の中心バンドが今回紹介するBlack Flag(ブラック・フラッグ)であり、彼らは1970年代からハードコア・パンクをしており、結成した1976年から解散する1986年までの10年間で様々な音楽実験を行い続けた。
その先進的姿勢が様々なバンドに影響を与えたことで後のオルタナティブロック・ムーブメントの礎を作った。
また彼らは音楽活動だけでなくBlack Flagのリーダーのグレッグ・ギンがSSTレコードというレーベルを運営してSonic YouthやDinosaur Jr.、Husker Du、Meat Puppets、Minutemenなど才能あるバンドを発掘してオルタナティブロックシーンの盛り上げに一役買っている。
しかしなんでそんな重要なバンドを今頃になって紹介するのか?
泥沼の法廷争い?!
本当はブログ開設当初から紹介したかったが、Black Flagがメンバーと元メンバーで法廷争いをしていたため紹介しづらかった...
争いの理由は「Black Flag」というバンドの権利の所在について。
2013年にBlack Flagのリーダーのグレッグ・ギンがBlanck Flagの再結成ツアーを行った。
しかし同時期に元Black Flagのボーカルのキース・モリスやチャック・デュコウスキーたちがFlagという名前で再結成してBlack Flagの楽曲を演奏し始めた。
このことに対してグレッグ・ギンがFlag陣営に訴訟を起こし、最終的にFlagは活動中止となった。
そんな泥沼の法廷争いがあったため、紹介しづらかったが...
そんなレジェンド級のバンドBlack Flagを今回紹介!!
メンバー
※結成時からヘンリーロリンズ加入時のメンバーを中心に紹介
グレッグ・ギン
ギタリストでありバンドのリーダー。
1954年にアリゾナ州で生まれて、幼少期のときにカリフォルニア州に引っ越す。
幼少期はアマチュア無線への造詣が深いのが高じて、12歳でSST(Solid State Tuner)という電子機器の会社を設立した。
音楽に関してはRamonesやThe Stoogiesを好んで聞いており、またハードコア・パンク好きから大変嫌われているヒッピーバンドであるGrateful Deadを聴いていたという。
1976年にBlack Flagを結成し、ほとんどの楽曲の作詞作曲を手掛けており、彼が主導して何度もメンバー交代を行っている。
彼は無調なギターソロ(音階を無視したギターソロ)やノイズサウンド、急なテンポシフトなどハードコア・パンクにはなかったアイディアをふんだんに取り入れた。
このような実験性を重視する姿勢に影響を受けたアーティストは多く、At The Drive-Inのオマー・ロドリゲスやMelvinsのバズ・オズボーン、Red Hot Chili Peppersのジョン・フルシアンテなど多くのフォロワーがいる。
またFugaziと並んでアメリカのパンク界にDIY精神を広めた第一人者でもあり、彼はSSTレコードというインディ・レーベルを主宰して独自のLP・CD流通ルートを確立した。
さらにSSTレコードではSonic YouthやDinosaur Jr.、Husker Du、Meat Puppets、Minutemenなど才能あるバンドを発掘してオルタナティブロックシーンの盛り上げに貢献した。
(※しかし1980年代後半にグレッグ・ギンがあまりにも金払いが悪かったのが原因で上記のバンドのほとんどがSSTレコードを去ったのはまた別のお話...)
キース・モリス
初代ボーカル!(1976~1978年)
ボブ・シーガーやフォーリナー、ブラック・サバス、ディープ・パープルなどのハードロック、MC5やThe Stoogiesなどのプロトパンクを好んでいる。
初代ボーカルであったが、リーダーのグレッグ・ギンと方向性の違いにより脱退。
その後1978年にCircle Jerksというハードコア・パンクバンドを結成して、ハードコア黎明期を支える重大なバンドとして活躍する。
Circle Jerks解散後は2010年にOff!というバンドを結成。
2014年にFlagという名前でBlack Flagの楽曲を演奏したが、上記の訴訟により活動を停止。
現在はCircle Jerksを再結成して音楽活動を継続中!
デズ・カデナ
3代目ボーカル!(1979~1980年)、後にギタリストに転向。
ハスキーボイスでの歌唱を持ち味にしていたが、声を痛めたことでギタリストに転向。
また新たなボーカルとしてヘンリー・ロリンズを推薦したのが彼であった。
1981年にBlack Flagを脱退して、DC3を結成。
DC3での活動の傍ら、Red CrossやHusker Duのレコーディングに参加していた。
その後2001~2013年までMisfits(ミスフィッツ)のギタリストとして活躍!
また彼もキース・モリスと共にFlagという名前でBlack Flagの楽曲を演奏したが、上記の訴訟により活動を停止。
現在はJon Caspi and the First Gunというバンドで活動中。
ヘンリー・ロリンズ
4代目ボーカルであり、彼の加入によりバンドがより有名になった。
ワシントンD.C.で生まれ育ち、幼馴染にFugaziのイアン・マッケイがおり、彼からSex Pistolsのレコードを聴かせてもらったことでパンクロックに目覚める。
はじめは当時イアン・マッケイがベーシストをしていたバンドTeen Idlesのローディ(機材運びなどの手伝い)をしていたが、ヘンリー自らもSOA(ステイト・オブ・アラート)というバンドを結成してボーカルを担当。
(この頃ヘンリーはジョージタウンのハーゲンダッツの副店長をしており収入は安定していた。)
その後ヘンリーはまたイアン・マッケイの勧めでBlack Flagを知り、彼らの大ファンとなって当時メンバーと手紙でやり取りするほどだった。
1981年、ニューヨークでBlack Flagのライブがあり観客として参加していたヘンリーは即興で「Clocked In」という曲を歌わせてもらったのを機に、Black Flagのボーカリストとして加入する。
マッチョな肉体で黒いパンツ一枚のみ身にまとい激しい怒りを込めて歌うヘンリーのパフォーマンスでバンドは一躍有名になった!
ただパンクのファンの中にライブ中メンバーに襲い掛かる人もいたが、ヘンリーはその連中に拳で立ち向かっていた。(しかしグレッグ・ギンはこのような立ち振る舞いを嫌がっていた。)
また1986年にBlack Flagが解散した後、ヘンリーはロリンズ・バンドを結成して、オルタナティブメタルの代表格として名声を得る。
音楽以外でも俳優やコラムニスト、テレビやラジオ番組の司会、コメディアンなど幅広くマルチに活躍している。
チャック・デュコウスキー
ベーシスト。
本名はゲイリー・アーサー・マクダニエルであるが、ある日小銭をさがしていたときに「チャック・ザ・デューク」と刻まれたジッポーライターを見つけてその男らしい名前が印象に残ったという。
またこのチャックという名前にポーランド風に苗字を付け加えたいと思い、チャック・デュコウスキーと名乗り始めた。
Würm(ヴェルム)というバンドのベーシストを1973~1977年までしていたが、同バンドを解散直後にグレッグ・ギンに誘われてBlack Flagに加入。
時々作詞をすることもあり、バンドの代表曲の『My War』はチャックが作詞した。
だが1983年にバンドのベーシストからマネージャーに転向して、Black Flagが解散するまでバンドを影で支えていた。
また彼もキース・モリスと共にFlagという名前でBlack Flagの楽曲を演奏したが、上記の訴訟により活動を停止。
ロボ
ドラマー。
本名はフリオ・ロベルト・バルベルデ・バレンシアというコロンビア系アメリカ人であり、ロボは芸名。
芸名の由来はロベルトをもじってロボとなったことと、彼のドラムプレイが手首のスナップを使わずいつも腕全体を使って叩く様子がロボットのようだと言われたこと。
生まれはコロンビアのサンティアゴ・デ・カリという都市で生まれ育ったが、1975年初頭に学生ビザで渡米した。
1978年、ブライアン・ミグドルに代わってBlack Flagの2番目のドラマーとして加入。
全国ツアーや海外ツアー、『Damaged』(1stアルバム/1981年)のレコーディングに参加し、全盛期のBlack Flagで活躍していた。
しかし彼は学生ビザが切れていたいたのにもかかわらず、ずっとアメリカに滞在していた。
そのため1982年にバンドがイギリスのライブツアーを終えてアメリカに戻ろうとしたときに、ロボは拘束されてコロンビアに強制送還された。(当然このときバンドを脱退)
しかしその後1982年の後半に憧れのバンドMisfits(ミスフィッツ)がドラマーを探していることを聞きつけ、再び渡米して同バンドに加入。
だがMisfits(ミスフィッツ)も1983年に解散したため、再びコロンビアに帰国した。
その後Misfits(ミスフィッツ)が再結成したため、ロボは2005年に再加入するが、2010年にまたパスポートの問題で帰国せざるを得なくなったためバンドを脱退している。
おすすめ曲
Nervous Breakdown
Black Flagが1978年に発表したバンド初のEP。
ボーカルはキース・モリスが担当していた時期だった。(動画ではヘンリー・ロリンズ)
バンドの中でもRamonesやSex Pistolsからの影響を直で感じる楽曲だが、キースのエッジの効いたシャウトやグレッグの不協和音を前面に押し出したノイズギターにより、以前のパンクとは一線を画した曲調でリスナーに衝撃を与えた。
アメリカのインディーズ史、もしくはパンク史において重要な楽曲。
Rise Above
アルバムの1曲目を飾るのに相応しい骨太なハードコア・パンク!!
歌詞の内容は「社会は俺たちに挑戦する前に無理だと諦めさせようとするが、無視しろ。チャンスは誰にでもある!」というかなり前向きな楽曲!
コンパクトな楽曲であり、シンプルな歌詞と当時パンク界隈ではご法度であったギターソロも少しだけ入れている。
TV Party
印象的なベースリフから始まり、男らしい陽気なコーラスもあるタイトル通りパーティ色が強いポップなハードコアソング。
実際の歌詞はテレビやビールに依存している無気力なアメリカ社会を風刺した楽曲。
ただあまりにも楽しく歌っているためそのような皮肉が伝わらないことが多かったという。
映画『レポマン』のサウンドトラックに収録されている。
Six Pack
2分ほどのバンドを代表するハードコアソング。
曲調自体は正統派のハードコアパンクであるが、音が低音を中心に歪んだディストーションギターが特徴的でありこの頃からポストハードコア的アプローチをしていたことになる。
この曲はシングルカットされており、イギリスのインディーズチャートにて36位を記録した。
My War
以前のハードコアパンクとは打って変わってメタルのようなヘヴィなサウンドと不協和音を使ったサウンド。
またテンポチェンジも盛り込まれていたりなど割と実験性あふれる楽曲。
しかしテンポ自体は正当なハードコアであり、徐々にポストハードコア的楽曲に対して免疫をつけさせるような意図も感じ取れる。
Three Nights
6分にも渡るスローテンポとヘヴィネスを追求した意欲作!
陰鬱でつま先からどんどん体に音が侵食していくかのような感覚になるホラーテイストも感じる楽曲。
ヘンリー・ロリンズはこの曲を「自分自身を靴にこびりついた排泄物」と例えている。
だがこの汚さがパンクからグランジへの架け橋となったと思う。
Drinking and Driving
『In My Head』(6thアルバム/1986年)、収録曲。
タイトル通り飲酒運転についての楽曲。
この頃はポストハードコア的志向であったため、激しさよりもミニマルな雰囲気を感じる。
ノイズ溢れる奇妙なギターフレーズを繰り返し、そのギターフレーズに合わせたヘンリーの歌メロが載るという構成。
彼らがハードコアの可能性を追求していた時期の代表的な楽曲。
おすすめアルバム
『Damaged』(1stアルバム/1981年)
ヘンリーロリンズを迎えて初めて制作された、LAハードコアを代表するアルバム!!
ヘンリーの激しいシャウトとグレッグのノイズギターの相乗効果により原始的な凶暴性を感じるハードコアのお手本のような作品となった。
このアルバムのパンク史に残る偉業は、反社会的メッセージよりも社会的孤立や自己嫌悪、鬱など内省的なテーマが多かったことだと思う。
自身の弱みを叫びながら訴えるというスタイルは当時の大衆には理解を得られなかったが、90年代に入ってようやくグランジブームによって広く受け入れられるようになった。
Sex Pistolsが提示した「パンク=反体制・反政府」という強固な概念に、Black Flagが新しく「内省」という概念を付随させた。
このアプローチによってパンクというものを広義的に解釈できる風潮を作って、後進のバンドに新しい道を築いたと思う。
ローリング・ストーン誌のThe 500 Greatest Albums of All Time(2020年改訂版)では487位にランクイン!
2002年にピッチフォークが選ぶ「1980年代の最高のアルバム100枚のリスト」で25位に選ばれる。
またNirvanaのカート・コバーンが書き記した「おすすめのアルバムベスト50」にてこのアルバムが第40位に挙げられていた。
『My War』(2ndアルバム/1983年)
ハードコア・パンクとヘヴィメタルを融合させた歴史的名盤!!
Black Flagのメンバーたちは前作の『Damaged』の件で法廷争いをしたため、本作を1982年時点でリリースする予定であったが、1983年年末のリリースとなった。
彼らのファンや批評家たちは前作以上のハードコア・パンクの作風を期待したが、『My War』はその作風とは真逆の「ハードコア・パンクとヘヴィメタルの融合」がテーマであった。
それ以上に変拍子の採用やスローテンポ、急なテンポチェンジ、不協和音、特殊な音階の使用など今までのハードコア・パンクになかった要素を多く取り入れた。
元来ハードコア・パンクとはどれだけヘヴィメタルの要素を排除できるかが重要だったため、この方向性はファンと批評家から当然非難された。
ただしかし、同業のミュージシャンたちからの評価は違った...
Mudhoneyのマーク・アームはBlack Flagのライブでこのアルバムに収録されている「Nothing Left Inside」を聞いて感激のあまり涙を逃してこのようなサウンドを求めるようになったという。
またMelvinsもこのアルバムがリリースされて以来、今までのハイテンポスタイルからスローテンポスタイルに変更したという。
またNirvanaのカート・コバーンが書き記した「おすすめのアルバムベスト50」にてこのアルバムが第11位に挙げられていた。
このアルバムが無かったらグランジブームはなかったかもしれない...それほどの影響力を持つ名盤!
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